徳川天一坊 登場人物

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徳川吉宗(とくがわ よしむね)

←源六

​←源六郎

​←新之丞

←徳太郎

1684~1751

江戸幕府第八代将軍

紀州二代藩主徳川光貞の四男として生まれる。幼名源六、ついで新之助といい頼方と名乗る。1705年(宝永二年)紀州家五代藩主となり、将軍綱吉から吉の一字をもらって名を吉宗とあらためた。正徳二年(一七一二)六代将軍家宣が死去、四歳でそのあとをついでいた家継も享保元年四月、八歳で死亡したので徳川宗家の血が絶えた。この時御三家には尾州徳川に継友、紀州に吉宗、水戸に綱条がいたが、結局のところ八代将軍は紀州吉宗のところに落ち着いた。以降延享二年(一七四五)九月、将軍職をその子家重に譲る。宝暦元年(一七五一)死去。上野寛永寺に葬る。

法と機構による封建的官僚政治体制をあみだし、またみずから率先した思い切った倹約政策と年貢増徴策によって、幕初以来最悪の状況にあった幕府財政を建て直した。また元禄年間人口約百万といわれる巨大都市になっていた江戸の抱えていた数多い都市問題を、江戸町奉行大岡越前守忠相を指揮してつぎつぎと解決していった。これらを総称して享保の改革という。

​▷身長が180㎝あったと言われています。当時の平均身長が157㎝だったということなので、かなり大柄だったのですね。力もつよかったとか。

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大岡忠相(おおおか ただすけ)

← 大岡越前守(おおおか えちぜんのかみ)

← 忠右衛門(ちゅうえもん)

1677−1752

江戸時代前期-中期の武士、大名。

延宝5年生まれ。大岡忠高の4男。享保2年8代将軍徳川吉宗によって江戸町奉行にとりたてられ越前守と称した。公正な裁判、物価の安定、町火消の結成、小石川養生所の設立などに力をそそぎ名奉行といわれた。のち寺社奉行。寛延元年奏者番をかね、加増されて三河(愛知県)西大平藩主となった。1万石。宝暦元年12月19日死去。75歳。通称は市十郎、忠右衛門。

【格言など】下情に通じざれば裁きは曲がる(「甲子夜話」)

​▶実際に奉行として裁いたのは数件で、そのほとんどが後の創作だったとか。業績豊かで、世間にも通じていて、伝説が生まれるのも納得です。

白石治右衛門(しらいし じえもん)

← 平石次右衛門(ひらいし じえもん)

大岡越前守の公用人

▶神田春陽先生の口演では白石と読まれていますので、見出しはそれに倣いました。東洋文庫「天一坊実記」では平石と表記されています。

 

吉田三五郎(よしだ さんごろう)

大岡越前守の公用人

 

池田大助(いけだ だいすけ)

大岡越前守の公用人

▶講談「大岡政談 しばられ地蔵」にも出てきますね。わくわくします。

 

 

徳川天一坊(とくがわ てんいちぼう)

← 源氏坊改行

← 吉兵衛(きちべえ)

← 宝沢(ほうたく)

天一坊事件の主人公。紀州生れの源氏坊改行(「天一坊実記」では宝沢)が徳川天一坊と名のり、赤川大膳、常楽院天忠,、山内伊賀亮らとともに八代将軍徳川吉宗の御落胤を詐称したが、大岡越前守忠相の活躍であばかれ処罰された。

▶講談の口演では、後半になるとほとんど口を利かなくなるけど、この人からすべては始まった!今の世の中だったらDNA検査ですぐ偽物ってわかるのに、当時は証拠の品と計略次第でここまでこれてしまうのか。

 

赤川大膳(あかがわ だいぜん)

?−1729

江戸時代中期の無頼者。

水戸中納言の家老職・藤井紋太夫の子。

伊予(愛媛県)の山賊。享保11年天一坊の家来となってその企てにくわわり、捕らえられて刑死。のち歌舞伎や講談にとりあげられた。常楽院と名のる秋葉山の山伏で、遠島になったともいう。また藤井紋太夫の子ともいわれる。生年は一説に天和2年。

藤井左京(ふじい さきょう)

赤川大善の仲間。兄弟の契りを結ぶ。​

 

天忠坊日眞(てんちゅうぼう にっしん)

←常楽院天忠(じょうらくいん てんちゅう

←天忠日信(てんちゅう にっしん)

赤川大膳の叔父。濃州谷汲の長洞村(ながほらむら)、法華山常楽院長洞寺(ちょうどうじ)住職。

 

山内伊賀亮(やまのうち いがのすけ)

​←山内伊賀之助

←山内伊賀之亮

​九条前関白殿下の元家来。病身といって九条家を退き、美濃の山中に隠れ住む。常楽院天忠と親交あり。文武兼備の秀才。

▶この人がいなかったら、最終局面までいけなかったでしょうね。いつか死ぬしそれまでこの才能でとことん世の中を弄んでやろうというような印象。悪の美学のような魅力があり、ファンです!

松平伊豆守(まつだいら いずのかみ)

江戸時代大河内松平家の人物が伊豆守に就任したときの呼び名。老中職などを務める人が居たため、時代物などに良く登場する呼び名でもある。俗に「知恵伊豆」と称される松平信綱が有名。

▶徳川天一坊事件当時の伊豆守は松平信祝ですが、時代に頓着なく「知恵伊豆」を登場させている可能性が高いです。

 

松平信綱(まつだいらのぶつな;1596−1662):江戸時代前期の大名。慶長元年10月30日生まれ。大河内久綱の長男。松平正綱の養子。徳川家光の小姓から、寛永4年諸侯に列する。10年老中にくわえられて武蔵忍藩主。島原の乱を鎮圧し、その功で16年川越藩主松平(大河内)家初代。家光死後は家綱を補佐。参勤交代の制度化など幕藩体制の基礎づくりに貢献。伊豆守。「知恵伊豆」と称された。寛文2年3月16日死去。67歳。【格言など】天下の仕置は重箱を摺子木にて洗う様なるが善し

松平信祝(まつだいら のぶとき;1683−1744):江戸時代中期の大名。天和3年11月6日生まれ。松平信輝の長男。宝永6年下総古河藩藩主となる。三河吉田藩をへて、享保14年遠江浜松藩主松平(大河内)家初代。この間、奏者番、大坂城代をつとめ、15年老中となる。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与。延享元年4月18日死去。62歳。初名は信高。伊豆守。

徳川綱條(とくがわ つなえだ)
1656−1718
江戸時代前期-中期の大名。
明暦2年8月26日生まれ。讃岐高松藩主松平頼重(よりしげ)の次男。叔父徳川光圀(みつくに)の養子となり、元禄3年常陸水戸藩主徳川家3代。14年7万石を加増され35万石。松波勘十郎を登用し財政改革をはかるが、宝永6年全領の農民一揆がおこり,挫折した。享保3年9月11日死去。63歳。

加納将監(かのう しょうげん)

紀州二代藩主徳川光貞の家老。徳川吉宗の育ての親。

沢野(さわの)

​​←沢の井(さわのい)

加納将監方の腰元。腰元名として沢の井と名乗る。和歌山平野村出身。徳太郎(後の吉宗)に見初められ懐妊。御墨付(「我ら血筋に相違これなし)と御短刀を後の証拠として渡し受ける。

​▶神田春陽先生の口演では沢野、東洋文庫「天一坊実記」では沢の井と表記されています。

※見出しや青字参照の人名は、口演および人名辞典、大川屋書店1936年刊行「徳川天一坊 : 大岡政談」から採用しています。草色での参照している人名は平凡社1984年刊「大岡政談1 天一坊実記」(東洋文庫)によるものです。

※典拠とする資料や実演者によって人名に差異があります。そのため違和感を持たれる名称があるかと思われますが、ご了承いただければと存じます。明らかな間違いはご指摘たいだけると助かります。