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Q10. 松平伊豆守はひとりじゃない?

Q10. 松平伊豆守はひとりじゃない?

A10. 松平伊豆守を名乗った人物は複数いる。松平伊豆守は大河内松平家の人物が伊豆守に就任したときの呼び名。


歴史にうとい人(=わたし)の定めでしょうか…?

松平伊豆守って特定の人物ひとりのことを指しているのかと思っていました。


違った!


姓+役職名(受領名)は代々お家で受け継がれていくものが多いようです。

松平家が伊豆守という役職を世襲で担当していたので、同名偉人の松平伊豆守が複数人いるということらしいのです。


そうか!

役者名を代々継いでいくのと同じと考えればいいのかな?


市川猿之助はひとりじゃない。

市川猿之助は初代もいれば、2代目、3代目、当代の4代目がいるように、松平伊豆守も何人もいて、それぞれもちろん本名を別に持っている。


酒井雅楽守も紀伊国屋文左衛門も鴻池善右衛門も、神田山陽も柳家小三治もひとりじゃない!おお、そこに気づくと、じゃあわたしが今注目しているこの人は何代目の誰なの?という疑問がわいてくる。


そして、

4代目市川猿之助=2代目市川亀治郎=澤瀉屋=喜熨斗孝彦

というように、同一人物だけど社会的状況や時代によって名前が変わったり、使い分けたりすることもあるのでは?という疑問にぶち当たります。


めまい…


前置きが長くなりましたが(クラクラしていないで)、今回は徳川天一坊に登場する松平伊豆守について考えてみます。

松平伊豆守の系図を見てみましょう。赤い塗りつぶしが松平伊豆守を名乗った人物です。


松平伊豆守系図

徳川吉宗の生没年は1684~1751、将軍職を務めたのは1716~1745年。1716年時、松平伊豆守を名乗っていた可能性があるのは、松平信輝(のぶてる)と松平信祝(のぶとき)です。


さっそく、ふたりの略歴を詳しく見いくと、

信輝:1673年伊豆守に叙任。1709年(宝永6年)家督を長男の信祝に譲って隠居。

信祝:1709年(宝永6年)父信輝の隠居により家督を継ぐ。1729年(享保14年)遠江浜松藩主松平(大河内)家初代。1730年(享保15年)老中となる。


松平伊豆守年表

信祝の伊豆守叙任が何年なのか正確にはわかりませんが、どうやら天一坊事件当時、老中伊豆守であったのは、この信祝であった可能性が高いようです。


松平伊豆守というと、知恵伊豆(知恵出ず)と呼ばれ、3代将軍家光の時代に活躍した信綱が有名なので、混同しないよう注意したいところです。


講談の徳川天一坊はフィクションに根差した要素が強いと思われますが、歴史読物としてちゃんと時代と人を追えるのですね。

歴史うとい系のわたしだから故に?ちょっとマニアックな追っかけ方をしてみましたが、探偵になったような推理ゲームでたのしかったです。


あまり深く考えなくても物語だけでたのしめ、歴史巧者にとってはこの人!という歴史上の人物が登場してうま味120%でたのしめるのが講談なのだな、と改めて思いました。

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