天保水滸伝あらすじ

相撲の啖呵(すもうのたんか)

 下総(しもうさ)は須賀山村(すがやまむら)笹川に、岩瀬七左衛門という醤油商いの家があり、長男は長七、次男助七、三男繁蔵(しげぞう)といった。中でも繁蔵は子どもの頃から力自慢でならしている。

ある日のこと、繁蔵が家の用事の帰りに、牛堀の勘太と遭う。酒に酔った勘太はしつこく金を貸せと繁蔵につきまとい、繁蔵は勘太ともみ合い突き飛ばした拍子に、勘太は石地蔵に頭をぶつけ、打ち所が悪かったため亡くなってしまう。正当防衛として繁蔵を責める者はなかったが、人を殺めた事実に七左衛門は繁蔵を勘当。身の置き所を失った繁蔵は江戸へ出て相撲になるべく、同郷出身の親方を頼って千賀の浦部屋へ入門。繁蔵、このとき二十歳。3年後には早汐繁蔵(はやしお しげぞう)と改名して部屋頭へ出世。

 雨天のため相撲興行が中止となった一日、柳橋の梅川という料理屋で宴席が設けられ、繁蔵をはじめ多くの力士たちが参加をする。その中にいた横綱稲妻雷五郎(いなずま らいごろう)の弟子、幕内力士の虹ケ嶽杣衛門(にじがたけ せんえもん)に絡まれる。繁蔵は、目上格上とはわかっていつつも虹ケ嶽に反発し喧嘩となってしまう。

その後、千賀の浦部屋に戻った繁蔵は親方に叱責される。稲妻雷五郎の怒りを買ったため相撲興業が中止となってしまったのだ。詫び状を書けという親方に諫められるが、納得がいかない繁蔵。ふらりと出ていった繁蔵であったが、帰ってきた姿は髷を切って野郎頭、腰には長脇差。渡世人の恰好となっていた。相撲を辞めて自らの意思を貫く覚悟。

親方との縁を切り、別れを告げた繁蔵は稲妻雷五郎宅を訪れる。繁蔵が虹ケ嶽の不始末、事実を稲妻雷五郎に告げると、雷五郎の誤解が解け、逆に虹ケ嶽を叱責し、繁蔵に詫びをいれる雷五郎。

 2~3年のうちに長脇差(博打打ち)で頭角を現すことを誓って、須賀山村へ帰郷。銚子で幅を利かせている木村屋五郎蔵(きむらや ごろぞう)の身内となる。その後、笹川の旅籠屋、十一屋(じゅういちや)の主である流鏑馬の仁蔵(やぶさめ の にぞう)の跡目を継ぐ。同じ時期、木村屋五郎蔵の跡目を継いだのは飯岡の助五郎(いいおか の すけごろう)であった。

▶後に笹川の繁蔵が開いた大きな賭場、俗に笹川の花会が諏訪明神の修繕、そして相撲の祖である野見宿禰の碑の建立のためということからも、相撲と縁の深いことが伺えます。

平手の破門(ひらて の はもん)

 江戸は神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場を開く千葉周作。その高弟、平手造酒重広(ひらて みき しげひろ)は剣術の腕前で名を響かせているが、酒癖が悪い。酔って死人の腕を切り落とし、方々でいたずらを仕掛けるなどの始末。酔い覚めて、千葉周作の名を汚すと悟った平手は千葉の道場を後にする。

 飯岡助五郎(いいおか の すけごろう)の用心棒になろうと下総へ向かう道すがら、市川の居酒屋でひとりの男と気が合う。笹川の繁蔵の子分、夏目新助(なつめ の しんすけ)であった。新助から助五郎と繁蔵の話を聞き、手数で弱い繁蔵の用心棒になると決める。

 繁蔵の用心棒となった平手は、剣術指南など仲間内からも評判だが、やはりここでも酒癖の悪さが出てしまうことになる。

▶平手造酒の出自や名称には諸説あるようですが、この人物の活躍が天保水滸伝の魅力のひとつですね。

 

鹿島の棒祭り(かしま の ぼうまつり)

 月の半ばに行われる鹿島神宮の祭礼、棒祭り。下総中の博打うちが集まり、賭場(どば)が開かれる。笹川の繁蔵も賭場を開くが、繁蔵本人は所用で出かけることができず、繁蔵の兄弟分である万歳村の勢力富五郎(せいりき の とみごろう)と用心棒として平手造酒が赴く。

 平手の酒癖を案じた繁蔵は、祭礼中の酒を禁じる。とはいえ、酒に寄せられてしまう平手。富五郎の許しを得て居酒屋へ。

平手が気持ちよく酒を飲んでいると、浪人三人組(笠井庄助、下寺十郎次、山崎幸三郎)が現れ、平手に粗相をするが気づかぬ様子。居合わせた団子売りと芸をする犬をけしかけて、浪人組に意趣返し。斬り合いの喧嘩となり平手は山崎幸三郎を殺めてしまう。

 騒動に駆け付けた富五郎は、助五郎の賭場へ新助を走らせ、事の次第を知らせる。賭場に控えていた成田の甚蔵、八木村の伊七、三浦屋孫次郎らは、関わり合いを面倒に思い山崎らを知らぬと退ける。

しかしこれが笹川と飯岡の遺恨の一つとなったことは間違いない。

▶鹿島神宮、香取神宮(かとり じんぐう)、息栖神社(いきす じんじゃ)は東国三社として、江戸時代には伊勢神宮に次いで親しまれていた参詣だそうです。利根川をゆったりと船でわたりながらの三社めぐり、たのしそう。

笹川の花会(ささがわ の はながい)

 天保十三年七月二十七、二十八日にかけて、諏訪明神境内の修復ならびに野見宿禰の碑の建立のため、笹川の繁蔵が開いた大きな賭場、俗に笹川の花会。全国から名だたる親分衆を招いて開かれ、両日で千両二千両の金が動くとされていた。

飯岡の助五郎は、繁蔵が売り出し中とはいえ、二十歳近くも年下で格下の繁蔵の招きに応じることもなかろうと、一の子分である洲崎の政吉(すのさき の まさきち)を名代に出席させることとする。義理の金に、助五郎五両、同じく若者衆三両を政吉に持たせる。政吉は金額の少なさに肝が冷えるが何も言えない。

 花会当日、全国から集まった親分衆は百名からを超え、笹川の隣町小見川(おみがわ)から芸者衆を総揚げ。笹川で十一屋だけが灯をともしたような大にぎわい。

到着した政吉を迎えた繁蔵は渡された義理金を自身の懐に入れる。帳場役の夏目の新助は不審顔。

座敷に通された政吉の前には名だたる面々が居並ぶ。正席には上州の大前田英五郎(おまえだ の えいごろう)。後見役に一関の信夫常吉(しのぶの つねきち)、仙台丸屋忠吉(まるやのちゅうきち、上州館林江戸屋虎五郎、伊豆大場久八(だいばのきゅうはち)等。

 「助の野郎はここに顔をだす義理がある」政吉に厳しく詰め寄るひとりの貫禄、上州国定村の長岡忠治であった。もっともな言い分に言葉もない政吉。それだけでなく、座敷の長押に貼りだしている義理の金高が、どんなに少ない親分でも二十両、若者衆でも十両である。そこへ「助五郎五両、同じく若者衆三両」と貼りだされたらと思うとみの細る思い。ところが貼りだされた金額は「飯岡助五郎五十両、同じく若者衆三十両」。大親分たちは手のひらを返したように詫びてくる。繁蔵が助五郎の面子を保つためごまかしたのだ。政吉は繁蔵の度量に感嘆するとともに、深い感謝がひとつぶの涙となって重く流れた。

▶花会に飯岡から笹川までの七里(約28km)を飾り付けた馬ででかけて行く政吉。この日ばかりは特別に馬に乗ってもよかったとの言及があります。お祭りみたいなものだったのかな?と思っていたところ、笹川の夏祭りは毎年7月27日に開催されていたそうです(数年前から7月の最終土曜に変更となる)。

 

潮来の遊び(いたこ の あそび)

 銚子で質店を商う留吉という元やくざ者があった。留吉は息子の留次郎の気質が商売人としは硬すぎることを心配している。

ある日、留次郎は留吉の名代として商売仲間の寄り合いに出席。若者たちは寄り合いもそっちのけで、潮来の遊廓、鶴屋へ遊びに行くことになる。潮来は関東の三場所のひとつに数えられるほどの賑わい場所だ(他ふたつは大洗の祝町、銚子の松岸)。

 鶴屋の座敷でかたくなに拒んでいた留次郎だったが、比奈鶴花魁(ひなづる おいらん)との遊びのおもしろさを知り、潮来通いが続くようになる。

 同じく鶴屋に通うやくざ者に、飯岡の助五郎の身内の者で、もぐらの新助(しんすけ)という男があった。比奈鶴花魁のお客のひとりである。比奈鶴が留次郎にご執心と知り、新助は店で大暴れ。新助が暴れ込んだ部屋には笹川方の勢力富五郎。その場をおさめた勢力。恩義を感じた留吉留次郎親子は勢力と懇意となる。その後、飯岡方の奇襲の第一報を笹川に届けたのは留次郎であるが、その話は後に続く。

▶銚子から船で利根川を上り、潮来遊廓へ向かう留次郎たち。関東平野を見晴らす視線の先には、きっと筑波山のふたつのお山が見えたのだろうなと思われます。のどかで広々とした景色と、遊廓でのどたばた、気が晴れるような一席です。

平手の最期(ひらて の さいご)

 酒が過ぎた平手造酒は体調を崩し、笹川から少し離れた神代にある尼寺妙円寺(みょうえんじ)で養生することになる。

 一方笹川では、毎年の花会(賭場)、奉納相撲が済んだ8月上旬、飯岡助五郎が笹川へ殴り込みをかけてくるとの噂がたつ。助五郎と繁蔵は土地の顔役である木村屋五郎蔵の仲裁もなすすべない関係となっていたのだ。この一報を最初に聞きつけ笹川方へ知らせたのは、繁蔵方に恩義を感じる銚子の坂田屋留五郎(「潮来の遊び」参照)。

 天保十五年八月六日、大伝馬三艘に八十余名の身内を乗せた飯岡勢は笹川河岸に乗り付ける。笹川方は事前の知らせにより守りを固めた十一屋から応戦。

 その頃、飯岡の笹川殴り込みを伝えられた平手は妙円尼の制止を振り切り、死を覚悟の白の単衣物姿、酒を一気にあおり、愛刀、一竿子近江守忠綱(いっかんし おうみのかみ ただつな)を手に笹川へ駆け出す。

 十一屋にたどり着いた平手は、繁蔵を逃がし、飯岡方へ飛び込んで獅子奮迅の働き。しかし、病の衰えと一里を駆け付けた疲れから、血を吐いて倒れてしまう。そこへ容赦ない飯岡勢の斬りこみ。疵があると知りつつ使い込んだ愛刀は折れ、全身十一か所に深手を負った平手の命もついえる。この笹川河岸の大間違いで死んだのは笹川方ではこの平手ただ一人、飯岡方は洲崎政吉をはじめ四名であったという。

▶「侍は死するときに死なざれば 、死するにあまる恥辱あり」平手には侍の矜持があったことを知り、アッと小さな声が出てしまいました。

三浦屋孫次郎の義侠(みうらや まごじろう の ぎきょう)

 飯岡助五郎による笹川殴り込みの結果、お咎めを受けたのは笹川繁蔵方のみ。繁蔵一家は離散。繁蔵は凶状持ちの旅に出た。

伊勢詣りから上方へ。三年後、下総の国へ戻ってきた繁蔵。一番に訪れたのは飯岡助五郎の家。助五郎は留守、と偽る子分に、首を洗って待っていろと啖呵を切って助五郎宅を後にする。繁蔵が戻った十一屋には再び子分たちが集まってくる。

 弘化四年の夏、繁蔵は竹という若者を伴にして大山詣りに出かける。江の島鎌倉を回り、須賀山に戻ってきたのは七月四日のこと。身内の篠宮権太(しのみや の ごんた)の元へ足休めに寄った繁蔵は、竹を先に帰らせる。外に出た竹は須賀山の地主平左衛門と出くわし、繁蔵が権太の家で休んでから帰る旨を話す。飯岡の助五郎と通じている平左衛門は、待ち伏せして繁蔵を討つ絶好の機会だと、助五郎の身内である成田甚蔵(なりた の じんぞう)と三浦屋孫次郎へ告げる。

 酒に酔っていたこと、折しも長旅で草履の紐が弱っていた悪運も重なり、百橋(びゃくばし)で甚蔵と孫次郎の手にかかり繁蔵は命を落とす。時に繁蔵三十八歳であった。

 繁蔵の首を持ち帰った孫次郎だったが、繁蔵の首を前にして無礼な態度をとる助五郎にあきれ果て、首を十一屋へ帰す許しを求め、また、助五郎と親分子分の縁を切ってほしいと申し出て助五郎の元を後にする。

 一方、笹川では百橋で首のない死体が見つかり、それが繁蔵であると判明し騒然となっていた。そこへ孫次郎がやってきて、繁蔵を手に掛けた顛末と、首を返しに来た事情を語る。死を覚悟した孫次郎に感心した清滝の佐吉は、怒りと悲しみにくれる仲間たちを諭し、もう恨みは消えたと孫次郎に許しを与える。捨てた命を佐吉の恩情に救われた孫次郎は、己の髻(もとどり)を落とし、繁蔵の菩提を弔うため姿を消した。

 女房のお豊が碑を建てねんごろに葬ったのは明治七年のことである。

▶繁蔵が相撲になり、やがて笹川の大貸元となるまでをずっと見てきたので、繁蔵が殺されてしまう場面ではこみ上げてくるものがあります。