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新田の伊七と神田伯龍 その5 ~結論~

わたし

これまでの調査を踏まえ、新田の伊七と神田伯龍のエピソードを検証してみたいと思います。


わたしが考えるには、

エピソードが事実であるかは証明できなかったけれども、事実でないとも証明できなかった。

という、レトリックのような結論に達しました。


ではそれぞれの可能性について書き出してみます。



〇事実であったと考える

 まず、新田の伊七という絶妙な人物。けして有名ではなく、史実の片隅に名を連ねていた伊七。神田伯龍とのエピソードがなければ歴史の片隅で消えていくような人物である点。

 次に、神田伯龍という稀代の講釈師が、代々名を受け継がれているために時代が特定できないという点はさておき、この人物を登場させてエピソードが語り継がれる点においては、あまりいい加減なことも言えないのではないかという推測。芸人仲間でのおふざけにしては障りがあると思うのです。

 最後に場所が佐原ということ。寄席があったということで、ある程度賑わいがあった場所である必要があります。銚子でも松岸でも成田でもなく、佐原であった点により信ぴょう性を感じるのです。



〇事実ではないと考える

 史実を基にしているというものの「天保水滸伝」自体がフィクションであること。フィクションであるからには当然作者がいます。さあ、「天保水滸伝」を捜索した人物を思い出してください。そうです、嘉永3年(1850年)江戸の講釈師・宝井琴凌によって作られました。※1

なんと事件から6年後に講談になっていたのですね。この講談が作られることによって事件の真相が一気に世間に広まることとなり、やがて講談はもとより大正期に浪曲へも飛び火して全国の寄席や演芸場が賑わったのです。

 つまり、本編につづくまことしやかなエピソードを創作して、物語周辺のにぎやかしとする人物がいたとしてもおかしくはありません。宝井琴凌が講談を創作するにあたって調べた資料をもとに、誰かが、想像するに口演をしていた講談師か、演芸作家か…。それはもしかしたら神田伯龍自身だったかもしれない。こう想像するのも、なんともたのしいですね!



真実は霧の中。

でも、本当のことでも、創作されたエピソードでも、わくわくする結論に達することができました。時代とともに講談の演目が育っていくような感覚と言うか、なんというか。


5回にわたって「天保水滸伝」をめぐる探索にお付き合いいただきありがとうございました!



参考資料

※1 野口政司/著『実録 天保水滸伝』1978年刊(自費出版)

  p.60~「天保水滸伝」について;「講談師としては近代の名人と言われた神田伯山もこれを語りより一増世に喧伝された」「天保水滸伝をもっとも有名にしたのは二代目玉川勝太郎の浪曲である」



 

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